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黄金時代

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黄金時代

 

 私たちの諸悪の救済手段は、私たちの内部に、私たちの本性の無時間的原理の中にさがさねばならぬ。そうした原理の非現実性が証明されれば、私たちの破滅は最終的に確定する。だが、どんな証明が、どんな証拠品が、私たち自身の一定部分は時間持続から脱出できるはずだという、内密の、熱狂的な確信に打ち勝てるというのだろう。私たちの生死の境い目に、突如としてほとばしり出る光、私たちをおのれ自身の底ふかく投げこむひとつの至福として、宇宙の外に発生する一個の衝撃としてほとばしり出る光が、神を無用の長物と化してしまうような、あの時間の大氾濫を前にして、そんな証明が、そんな証拠物件が一体何をすることができよう? その時、もはや過去もなく、未来もないにちがいない。諸世紀は霧散し、物質は廃棄され、暗黒は汲みつくされるであろう。死は笑うべきものと見え、生もまた笑うべきものと見えるであろう。そして、たとえこの衝撃を、私たちがたった一度しか味わうことができなくとも、私たちの恥辱、私たちの悲惨と和解するためには、それで十分なのである。おそらくはこの衝撃が、恥辱の、悲惨の埋めあわせをしてくれるはずだ。あたかも全時間が、消え去る前に、これを最後として私たちを訪れてくれたかのようだ。……そのあとでは、古き楽園に遡行することも、あたらしき楽園の方へ駆け出すことも、ともに無益であろう。前者は到達不能、後者は実現不能なのである。問題は、外部に向けられれば裏切られるに決まっている郷愁と期待とを、ともども内面化することであろう。その上で、この郷愁、この期待にむち打って、私たちがそれぞれ哀惜したり当てこんだりしている至福を、私たちの内部に発見させなばならぬ。あるいは創り出させねばならぬ。私たちの存在の最深部、自我のまた自我のごとき場所を除いては、楽園の存在しようもないのである。だが、そうは言っても、この最深部に楽園を発見するためには、あらかじめ一切の楽園を――過ぎ去ったものにせよ、今後ありうべきものにせよ、一切の楽園を経めぐって、狂信のどじを十分に踏みながらそれらを愛し、また憎み、それらを徹底的に調査し、その上で失望の権威にかけて投げ棄てておかねばならぬ。

 そんなことは、幻影に代えるに幻影で以てすることじゃないか、黄金時代の寓話も、お前の考えている永遠の現在も、所詮は似たようなものだ、それに、お前の希望の礎(いしずえ)たるその根源的自我なんぞは、空虚といいかえても同じことだし、結局は空虚に到達するにきまっている、と人はなじるかも知れぬ。よろしい、充溢をわかち与えてくれる空虚とは、歴史がその総体において所有するよりも、さらに多量の現実性をふくむものではないのか?

 

歴史とユートピア

 

E.M.シオラン

 

出口裕弘 訳

 

紀伊國屋書店


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